昭和50年 月日不明 特別奉修委員 テープ№50-082-B面-3
中村良一
今朝から、日田の井出さんが、こんなお知らせを頂いた。御大祭にお参りするために、久大線を利用して、まぁ、参って見えるわけですけれども、汽車の中で、トロッコこうした時に、お夢を頂いたのが、大きなヨットに、日田丸と書いてある。そしてそれに、船長が親先生で、ちょうど昨日は、日田から十三名お参りがあっとったそうですが、その、十三名のものが、そのヨットに、もう、それこそ、嬉々として乗っておるところを頂いたと言うのです。
また、これも今朝から、善導寺で製材をなさっておられる、あの方、深山さん、こう、まぁだ、十四五日ぐらいでしょうかね。お参りになって、もうとにかく、もう有難うして、有難うしてもう、そしておかげを頂いて、主人がね。変わっていくのがもう、目に見えるようだと。もう、朝の御祈念なんかにお参り。本当はこう言うとったのが、寝とるうちに、じっと、おぞまんうちに、お参りをして、そして帰ってみると、おぞんどらん。はぁ良かったというようなお参りじゃったのが、この頃は、私がお参りしよることをね、何かとにかく、快いようなふうにね。昨日も朝、お参りして帰りましたら、あんた、ちゃんと起きとりますじゃないですか。ところが、その主人が、あの、ちょいと来てみれ、こん植木が、こげん立派になってから、こげんなってちから、そのもう、夫婦でその、あの楽しゅうして応えんというてその、主人が話してくれます。今まで、かってなかったことだと言うのです。と言うように、主人が変わってまいりますと言うてお届けがありましたが。それはね、あの、主人が変わりよるとじゃなかばい。あんたが変わりよるとよと言うて、まぁ、はなした事でしたけれどね。それが、今朝からその、お夢をいただいた。そのお夢がね、風呂、いわゆる、温泉に入ってるわけです。そして、その、自分の周囲の方達にも、その温泉を、あの、進めんならんというようなところ。それを、誰かが、覆面をしてから、その、覗いておられるから、どなたじゃろかと思うたら、親先生じゃったと、こう言うのです。まぁ、その中からね、色々分からせていただくんですけれどもね。それこそ今、あぁ日田辺りの方達が、毎日、毎日あの、遠方から日参をしてくるという事は、もう、ただただもう、有難うして、有難うしてと言うところには、もうその、おかげが生き生きとして現れておるわけです。けれどもほんなら、神様の目からご覧になると、舟のお知らせはお徳と仰いますね。合楽なら合楽という、そのお徳の船に乗らせて頂いておる。けれども、同じお徳でもです。それは、まぁだ、ヨッとのようなものだという事です。ヨットというのは、まぁ、趣味とか、遊びで乗る、いわば舟であってね。千石船というように、どれだけの重いものを乗せても、びくともせんというようなのじゃない。ただ、操り方一つでその、ヨットが走る、その楽しみとか、喜び、いうならば、信心のそれぞれの過程というものがね。初めて合楽に御神縁を頂いて、さしものでもなかったものが、段々有難うなって行くというのはね。ちょうど、ヨットの技術を覚えれようなものでね。もう、楽しゅうして、嬉しゅうして、ちょうっとスリルはあるけれども、またそれが有難いというようなね、いうようなところを通らせて頂いておるのであって、これは一つ、本気でね、いわゆる、千石船に乗らせて頂いておるという、日田丸に変わっていかなければいけないねと言うて話したことでした。
稲松さんの場合でもそうです。もう今もう、有難うして、有難うして、もう、泣かにゃおられんち言うごと有難い。ね。朝、有難いから、また昼もお参りせにゃおられなくなる。もうとにかく、まぁね。今、善導寺から、朝は山本から参って見えるでしょ。住まいのが山本、工場が善導寺にあるわけでしょうか。ですから、お参りをして見えます。ね。そして、お父さんの自動車で参って来なさるそうですが、今度はあの、ちょっと自動車は、またお父さんが、主人が要るからと。今度は、自転車で次には参ってくるというようにして、もうとにかく、合楽通いが嬉しゅうして応えん。まぁ、日田のその方達と同じような事じゃないでしょうかね。本当に合楽で、初めて信心の有難さ、尊さと。ある教会に参っておられたんですけれどもね。こんなにも、同じ金光様で、こんなにも違うもんだろうかと言う事をね。そして、なるほど、これじゃ、おかげ頂かないはずだというようなものやらを、段々分かってきて、とにかく、私が、申しましたんですけれど。あのね、お風呂へ入っておる時は、誰だって、あぁ、極楽極楽と言おうがのと、私が申しました、ね。暑い時でも寒い時でも、ね。やはり、お風呂というものは極楽だと。いうならば、今、あんたが合楽通いしよるのは、ちょうど、温泉行きをして、極楽に行っておるようなものなんだ。一つ、風呂ざめせんごとせにゃいかんばいと、私が申しました、ね。その有難いとが、何時のまにか消えうせるじゃ、いかんじゃないか。そのためにはね、どうでも一つ、今の時点では、温泉行きでも良いから、周囲の人を温泉行きに誘う。どこどこ、合楽温泉に言ってみなさい。そらもうとても、ほんに極楽ばいと言うて、自分の周囲の難儀な人達にね。そすと、合楽に縁を頂いておる、お参りをしておる間だけでも、極楽に味あうことが出来るんだから。あんた達の周囲には沢山ある。ね。例えば、本ならその、親先生が覆面をして、その、覗いておられるということは、どういう事かというと、何時も神様はね、目には見えないけれども、私共を覗いておられる、見ておられる、見守っておられるんだと。ね。だから、何時も、私共が、極楽というておる、有難いと言うておる、その有難いというを検討していかなならんけれども、あんたのこの有難いのは、ね。また次の有難い。それこそ、風呂ざめせんような信心になっていかにゃいかん。それこそ、汗水流して、働かせていただく中にも、はぁ、極楽と言えれるような信心を、これから頂いていかなきゃいけない。これから導いていく人達の場合は、始めの間は、さぁ、汗水流したっちゃ有難い。どんな苦しいことがあっても有難いち言うたっちゃ分からん。それで、先ずは、合楽温泉にお導きをしなさい。そして有難い、いわゆるその、信心の過程なんです。ね。
先ほど、佐田さんがお届けをされ、この頃から、お知らせを頂いておる。それが、まぁだ良く分かってなかったからと言うて、お届けをされた。その中にも、例えば、あの、その信心の過程ということが言ってある。ね。まぁ、いうならば、おかげを頂くための信心であったのがです。段々、自分の信心の力が付いてきた。ね。有難い。それを柿のお知らせと、トマトのお知らせを頂いた。しかもその柿が、段々、トマトになっていくところを頂かれたち言う。ね。御神願に。柿というのは、まぁ、ただ、美味しいというだけの食べ物。いわゆる、おかげが有難いと言うだけの信心。それから、トマトというのは、さほどその、美味しいものではないけれども、いつの間にか血になり、いつの間にか肉になるという。あれは、そういう栄養の内容を持った食べ物なんです。その柿から、言うなら、トマトに移っていっておる。今、佐田さんたちの場合は、その、ただ、今時分の力が付いていきよるとが楽しゅうして応えんという信心です、現在。ね。ほんなら、今度は、それがまた、この柿のね、信心に移っていかなきゃいけない。それは、どういう事かというと。いうならば、ね。皮をむいて、そしてそれをぶら下げて、そして、渋がぼとぼというごと落ちて、それが干柿になる。干し柿になる。という事になってくると、もう、これは、何時まで置いても悪くならない。あの世にも持って行け、この世にも残して置けるというような、信心の過程というものがね。ね、おかげから入って、力を受ける事の喜びが分かって、そしてお徳を受けていくという信心に、段々進んでいかなければならない。信心の過程なんです。道すがらなんです。
いわゆる、井出さんが頂いておられる、はぁそれこそもう、もうそれこそ、合楽合楽でお参りしてきておる、ほんなら、日田の方達の場合なんかは、ただね、それは有難い。けれどもそれは、同じお徳というても、ヨットに乗っておるようなものなんだ。これから一つ、本気で千石船に、ね。乗らせていただかなければならないし、また、どういう重いものを乗せても、びくともせんような、もう趣味とか道楽じゃない。もう、それが有難いという信心になっていかなきゃならないと、神様が、次の信心をこう、暗示しておられると言う感じ。ね。そこでです、ほんなら、お互いがね、そういう信心に進ませていただこうという発願をしなければいけません。ね。そういう、例えば思いを持ち、願いを持たせて頂く事を、神様が、もう、いたく喜んで下さる。
今、秋山さんが、御祈念前にお届けされるのに、親先生、昨日の朝の御理解の、ね。神の機感に叶うた氏子という、あの神の機感に叶うという、あの御理解はもう、何十辺頂いたか分かりませんて、あらゆる角度から。けれども、昨日の朝ほど、いやぁ、こら本当に神様の機感に叶う信心にね、ならにゃつまらん、お取立てをいただかにゃ出来ん。それを願わにゃ出来んと思わせていただいて、有難い思いで、今朝のお参りをさせて貰うたら、今朝の御理解でもう、決定的にです。今朝の御理解で、いよいよその事が有難うなったと言うて、お届けしよったら、自分が涙ポロポロ流してござる。ね。本気で神様の機感に叶う信心にならせて下さいということが、発願が出来たわけなんです。今までは、自分の都合の信心から、神様の都合、神様を本意にする生き方というものを、これから本気で身につけにゃならんという事が、昨日の朝の御理解で分からせて貰うた。神の機感に叶う氏子にならせて頂きたいという熱願をね、今日の御理解でまた、一段と、そこを強く思わせていただいたと言うたら、涙が流れた。どういうことでしょうか。これはもう、秋山和江という人の涙ではなくて、神様が、よくもそこが分かってくれたという、神様が、嬉し涙を流してござると、私は、お取次ぎしながら思うたです。ね。本当に神様の機感にかのうた信心。そういう祈りを持たせてもらうときに、神様が喜びなさらんはずが無い。いつもかつも同じ願いばっかり。そらもう、我情我欲のこつばっかり、神様ちゃ何かもう、貰わんもんが損ち言うごたる信心ばかりに終始しておるような事ではね。というてほんなら、合楽通いがです。楽しい、嬉しい、それはね、今まで聴いたこともなかったような、珍しい有難い話しを頂くもんですから。今まで、何十年信心しよったけれども、こげな話は聞いたことがなかったというような話を聞くもんだから。それが楽しみ、それが有難い。それは、ちょうど、ヨットで通いよるようなもんじゃないでしょうかね。何時までもヨットの信心じゃつまらん。ね。何時までも、ただ、ほんなら、お風呂に入って、あぁ、極楽極楽といったような信心じゃ出来ん。そんなに、四六時中お風呂に入っとく訳にはいかんのだもん。それこそ、汗水流して働かせていただく中にも、極楽を感じられる。場合には、血の涙が出るような、それこそ、腹をかきむしられるような思いもすることもあるけれども。そういう中にも、信心の有難さをいとうございます。もう、本当に残念なことですけれどもね。信心のおかげで、ここを信心で頂かせて頂くことが有難いと、お礼が言えれるような信心にも、やはり進んでいかなければならんのです。それにはね、一つ本気でギリギリ、神の機感に叶うた氏子にお取立て頂きたいという、その事が熱願、その事が願いの芯であるというようなね。そこでほんなら、今日もどうぞ、一日、神様の機感に叶うような信心をさせて下さいと言うことになるのじゃないでしょうか。ね。それが願いなんです。今日もどうぞ、神の機感に叶う。そしてそれを、自分の心行に移していくのです。ね。だから、その事を、神の機感に叶う。神の機感に叶うと言う事を、心の中にいただき、思い続けること、その事自体が心行です。ね。そこから、私は、本当の信心が育って行くと思うですね。どうでもね、お届けしよったら、なんでもないことなのに、涙がボロボロ流れる。それは、必ず、神様の機感に叶たような願いをしておる時、また、神の願いに添うておる時。また神様は、ね。ここを分かってくれよと、いうならば、神様が痒い思いをしてござるところをです、ね。そこを掻かせていただくような時。ね。それに、神様が、ここが痒かち言うござる後ろのほうでも掻きよるもんじゃきん、神様が、かえって歯痒かと思いござるというようなね、信心が付いたって、こらもう、何十年続いたって、やはり、おかげ信心に終始してしまいます。信心の徳を受けにゃいけません。信心の力を受けにゃいけません。そして、佐田さんじゃないけれども、力の向こうに、干柿の徳。何時まで置いても悪くならん。あの世にも持って行けれる。この世にも残しておけれるというようなおかげに、段々進んで行かねばいけませんね。どうぞ。